エロ同人誌vs処女喪失考察――「らき☆すた」をめぐるおはなし

 前回のエントリーでは、「エロ同人誌」も、私の考えた「らき☆すたキャラ処女喪失考察」も同様に愛がある、と書いたが今熟考してみるとそれは間違いであったと気づいた。
 エロ同人誌に比べ、私の「らき☆すたキャラ処女喪失考察」の方が愛が溢れている。強く言うと、エロ同人誌になんてたいして「愛」はない。そう強く思ったのだ。「エロ同人誌」と「処女喪失考察」の「消費」の差異についての説明を挟みながら、そう思う所以を以下に記す。
 エロ同人誌は流行の消費だと私は以前に書いた。するとそれに対しid:kyoumoeさんは「これ大丈夫かな? いろんな人に反感買わないかな?」と反応した。この反応を見た当初、私は深く考えもせず「こんなものだよなぁ〜」と思ったのだが、よく考えるとそのid:kyoumoeさんの意見は少数派だと感じる。
 エロ同人誌での「萌え」消費はそのときの流行りのネタで溢れている。しかも、全て画一的だ。もちろん、その短い流行が去れば割合は大幅に落ちる。市場を占める作品を見ればこのことは明らかだ。流行が流行でなくなったとき、作品は忘れ去られる。これを「消費」と呼ばずに、何と呼ぶのであろうか。
 私は、私の書いた「処女喪失考察」も消費だと述べた。しかし、同じ消費だとは言え、上に記したような「エロ同人誌」と比べると明らかに差異的な部分が見られ、そしてもっと見ると「愛」すらをも格段に差があるように思える。「処女喪失考察」は、有り触れたキャラクターの「萌え」を消費したものではない。想像を巡らせ、キャラクターの見えない部分を世界観から読み取り考えている。この行為は、見えない部分を書くために、世界観を崩しているとたびたび非難される。しかし、エロ同人誌と違い上辺の「萌え」だけを消費しているのではなく、その萌え要素の集合体であるキャラクターを作品の世界観から「萌え要素」以外の部分を読み取り想像している。これは、より深く「キャラクター」と「世界観」を感じとる行為であり、そして何より「理解」を要する行為だ。
 したがって、ただ流行りで「萌え」を消費しているエロ同人誌と比べ、「処女喪失考察」は極めて「愛」に溢れた物だと私は確信している。そして、これを機会に、もちろん私自身も含め、「世界観」ということについてもっと深く考えるべきだと思う。「らき☆すた」のキャラは性欲のない「世界」の住人なのか? それが「らき☆すた」の「世界観」なのか? 一概に「作品の世界観が」と糾弾している人たちに、それを問う覚悟を持つべきだろう。
 最後に、私は幾つかの説明と注意をしなければならない。このエントリーでは「エロ同人誌」に限って話をしているが、これはエロに限らず「同人誌」でも当てはまりうることだ。そして、エロの場合でも全てが「愛のない消費」ではない。くだらなく、絵でしか差がつけられない物が大半のなか、頭一つ抜け出している物も中にはあるだろう。また、この記事ではやたらと「愛」だとか言っているが、そんなの「二次創作」でしかないという前提がある事を汲み取って欲しい。ここで「私の方が愛がある!」と主張したところで、かなり低レベルな話なのだ。これらは、言うまでも無くただの「消費」でしかない。消費が悪いとは思わないが、所詮「消費」である。あくまで低いレベルでのおはなしだと言うことを理解して頂きたい。