ケータイ小説と文化系女子

 ケータイ小説に「リアルだ」と共感し、涙する女子中高生。そしてそれを貶すその他大衆。この様な構図は、ネットに耽溺している方(上記における後者)ならこれ以上語らなくとも瞬時に状況理解を示してくれるだろう。ケータイ小説は、拙文であり想像力も貧困で、内容はどれも大抵「援助交際」「ホスト」「死」などのキーワードが散りばめられていて、とても「リアル」だとは呼びがたい物である。そして、そんな作品で出版されベストセラーを記録する、これは確かに危惧するべき事であり、「馬鹿だ」と貶すことに繋がることかも知れない。しかし、私はこの様な構図、事態に幾つかの違和感を感じている。それは、ケータイ小説を愛読する層(主に女子中高生)が、本当に「共感」し、「涙」し、「リアル」だと感じているのか、ということだ。私の推論だと、読者である彼女達は全ての物事を「ネタ」として、「ケータイ」というフィルターを通して考え、感じているのだ。その「ケータイ」という「フィルター」は、全てをネタ化しうる物、意識的に自分の人物性すらをも変えているものである。つまり、そのフィルターを通すから「共感」「涙」「リアル」という事になっているのであって、実際にそうなっているわけではない。共感はケータイの向こう側にしか存在しないのである。流した涙はケータイの向こう側にしか存在しないのである。「リアル」はケータイの向こう側にしか存在しないのである。みな、「ネタ」として「リアル」と言っているに過ぎないのである。実際にそれらを体験しているのではなく、フィルターを通した意見を意図的、ネタ的にケータイでケータイ小説サイトに感想を込めているのだ。彼女らが一番「リアル」について自覚的であると私は考える。フィルターを通した自己はケータイ小説的な性格であり、みな、それをネタ的に楽しんでいるのだ。全て「ネタ」として昇華できる才を持ち合わせている彼女らに追い付くことが出来ずまともに批判(正確には罵倒)してしまうその他大衆のなんと無様なことであろうか。というネタをそろそろ友人に話してみたいが、ますます電波扱いされそうなのでやめておく。
 今日、図書館で友人らしき後姿を見かけたので脅かしてやろうと忍び寄り密接して歩いていたらそれ気づいたのかさっと振り返られ、「なんですか?」と、人違いだったらしく友人ではない見知らぬ高校生のお姉さんに問い掛けられた。身長154cm、体重40kgと推定。眼鏡は銀フレーム、髪型はボブ。なかなかのタイプであり、かなりの文化系女子であることは間違いないと思った。なので、手に抱えた本を指し、「それ、何かなあって思って」と質問をした。するとそのお姉さんは不思議そうな顔をし表紙を私が確認できるよう差し出してきた。タイトルを読む。『恋空』。上下。いろいろと、特に自分の審美眼に悲しくなりお礼をしそそくさと逃げるように私はその場を立ち去った。彼女に、そして彼女のような方々に私は一つ忠告したい。ケータイ小説を読む人はそのデメリットを考えて欲しい、と。例えば、「ライフ」あの人のような人ならば何の問題もなく、むしろ多大なメリットがあるだろう。デメリットなど、はっきり言って全く無い。しかし、彼女のようなルックスもアイテムも完璧に近い文化系女子type:B)がケータイ小説を読むということは、デメリットでしかない。はっきり言って、ケータイ小説の読者・執筆者の知性やルックスは大変おぞましい物だろう。セックスと恋愛が全ての人間だ、随分と可哀想な存在であることは間違いない。なので、知性の塊であるとも言える文化系女子が、そんなケータイ小説だなんてアイテムを読んではいけないのである。文化系女子は純粋で知性的で内気であるからこそ至高なのである。そんな毒薬を飲むような真似はやめて頂きたい。そのアイテムは貴方のイメージを低下させる物でしかないのだから。