『オナニーマスター黒沢』完結に寄せて

 原作の小説はちらっと読んだところ読み進め辛そうだったのでネタバレしたくなりましたが我慢しておもしろくてテーマ的にも分かりやすさが出ていたマンガ版『オナニーマスター黒沢』を連載初期から長らく楽しみに愛読していて、それがとうとう最終回を迎えたのですが、よい終わりかただと思いました。

 須川ツンデレ元不良)ゲットとか、北原(引きこもりメンヘルリストカッター)が簡単に部屋を出てしかも黒沢に好意を持つとか、いろいろと首を傾げてしまう点もあります。正直言ってこの作品は、主人公=読者はどのヒロインもゲットできる状態にいるという、ギャルゲーのようななハーレム構造を持っています。そのいい例として、最終話後の番外編「アイ・ノウ・ユー」では、黒沢はツンデレ元不良とのクリスマス・デートの約束を取り付け(彼女からの押しかけであることもポイント)たところで話は終わっています。

 事実的に、黒沢=読者=プレイヤーは各キャラに好感度パラメータをあげたりへらしたりしている状態でしかあらず、黒沢は誰かを本気で選んだりするわけではありません。きっと黒沢はこの先も、性欲の赴くままに、駅にいる北原に声をかけてみたりすることでしょう。そしてまたご都合主義的に北原は黒沢を愛するはずです。その意味で『オナニーマスター黒沢』というタイトルは言い得て妙であります。ギャルゲーに浸った人は言うことでしょう、これは日常への復帰=成長の作品である、と。しかし、この作品は、黒沢がいくら罪を懺悔しいじめを受けようとも、ただのオナニーでしかありません。あまり成長していません。私に言わせれば本作は、オナニーからオナニー的オナニーへの物語です。

 もう一度、最終話までの重要な筋を簡略に確認してみましょう。黒沢は、北原に脅し的に依頼されオナニーにより放出した精液でクラスメイトの制服を汚し続けているが、ある契機(ターゲットである、黒沢の意中の女子・滝川の体操服を探しているとき、修学旅行の自分を含んだグループの絵を見つける)により心打たれ事件を告白することを強く決意し、それを実行する。もちろん、クラスメイトやその他生徒から無視や机への落書き、被害者女子の知り合いの先輩から暴行を(一度だけ)受ける(「オナニーマスター黒沢」との称号も得る)。が、黒沢はそれでもめげずその生活を続ける。すると何故だか意中の滝川は過去の疎外されていた頃の自分を思い出しそれと重ね合わせ黒沢を許し、また、次第に須川を含む他の数人(メインキャラ)も黒沢を許していく。その一方で、イジめられたままの北原は遂に暴発しイジメ相手を彫刻刀で刺し、卒業を間近に控え不登校になり、引き篭もる。

 そして最終話では物語は時期が数ヵ月後に飛び、受験を終え高校生になってからの話である。そろそろ穴だらけのストーリー概略を述べるのは、意味も気力もないのでやめますが、つまりは主要キャラ(ヒロインと同姓の友達)も、意に介さず、黒沢を許す。これは正に「レイプ・ファンタジー」です。雑魚キャラからはぞんざいに扱われたままですが、自分が必要とする人物には決して裏切られない。レイプしても、決して嫌われることはなく、むしろ好かれてしまう。さて、これは黒沢は成長しているのでしょうか。一見、成長しているように思えることでしょう。が、実際には成長などしていません。「懺悔」も、罪を償って変わろうと思っての行動ではなく、むしろただの、「オナニー」でしかないのです。オナニー的自己反省し、それにより何故かオナニー的に許してもらえ、更には好意までもらえます。「オナニーマスター黒沢」とは、ただ「(実際の行為としての)オナニーのマスター」というだけでなく、このひどくご都合主義的で妄想的で「オナニー的」であるという意味での「オナニーのマスター」でもあります。最終話を読みタイトルのこの真意に気づかされました。うまいタイトルです。

 「『よい終わり方』と冒頭で言っておいてそれか!」との声が聞こえてきそうですが、以上の点を含んでも差し置いても、私はこの作品個人的にとても好きです。が、わざわざ「よい作品でした」ではなく「よい終わり方」と言ったのには、もちろんわけがあります。私がこの最終話を読み、上記の『オナニーマスター黒沢』のタイトルに込められた真意(付記すると、このタイトルのつけ方、後からタイトルの真意に気づかされる手法は、おそらくタイトルの元ネタであろう福本伸行最強伝説黒沢』からヒントを得たのではないでしょうか)の他に、あと二点、とても素晴らしいな、と思った、この作品を読み解く上で重大であろうポイントを見つけたからです。一点目は、黒沢の顔つき・髪型が、『涼宮ハルヒの憂鬱』の主人公・キョンとそっくりに書かれているというところです。二点目は、黒沢が高校では友達がまったくおらず独りぼっちである、ということです。これが何を意味するか、それはあなた自身で考えてみてください。


 オナマス終わってつまんない、という方は、ぜひ以下の作品をご購入のうえご覧ください。このエントリにおいて文体が崩れまくっているのはどの文体にしようか迷いながら書き進めたからです。

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さすがは北川景子たん、「モップガール」第一話

 さすがは北川景子たん……!
 タイムリープによる事件解決過程に重点を置くのではなく、徹底的にゆるやかなコメディ(あくまで「ゆるやか」な)に重点を置いた素晴らしき北川景子賞賛ドラマ。このある意味で素朴で絶妙な若さと造形を兼ね備えた唯一無二の女優・北川景子だからこそ出せるダメっぷりと圧倒的な存在感に我ら凡俗視聴者は平伏すしかない。
 そして、原作未読なので偉そうには言えないが、本作のコメディとしてのおもしろさは、北川景子たんはもちろんのことだが、演出・片山修氏の功績が大きいだろう。氏は、『オヤジぃ。』や『花より男子』、そして『木更津キャッツアイ』『タイガー&ドラゴン』『マンハッタンラブストーリー』など、ファミリー系から若者向け、そしてクドカン作品と幅広い作品に携わってきており、その演出能力は折り紙つきだ。分かりやすさを重視しつつも飽きさせることなく、それでいての絶妙な心情描写の演出には思わず唸ってしまう。今回の演出に心打たれ名前を調べ、「ああ、あの演出もやってた人か、通りで!」と思った人も多いのではないだろうか。個人的には、佐藤東弥に次いで追いかけていきたい演出家の一人である。
 本作は、アメリカのテレビドラマ『トゥルー・コーリング』との大きな類似性すなわちパクリが指摘されており、それ故思考停止した一部からは低い評価が与えられているようだが、変な目をなくせばかなりおもしろいし、初回放送は10.9%と中々の視聴率だったようだけど、この数字を最後まで維持できるかといえば難しいだろう。というのも、この枠(金曜ナイトドラマ)は『TRICK』『時効警察』などの夫婦漫才イズムを掲げる作品群が受けていて本作もその主義を継承しているのだが、夫婦漫才に措いて大事な夫(男優)の個性が本作では少し欠けている。本作に措いてその役割にあたる谷原章介は、言い方はかなり悪いが、パッとしない俳優なのである。もちろん谷原章介は著名で多くの作品に出演している人気俳優であるが、彼が阿部寛オダギリジョーのように抜きん出た個性を持つ人物であるとはいい難い。しかし、このある意味でのチープさやB級さに、絶望的に惹かれてしまうのがコメディドラマ好きだろう!
 いや、もう本当おもしろいんだけど、このおもしろさが何なのか自分でもよく分からない。前クールがあの『スシ王子』だったから相対的におもしろく感じてしまっている部分もあるんだろうけど、なんなんだろうなあ、いや、まあ結局結論は決まっていて、「北川景子最高!」と言うしかないんだよなあ。とりあえず、本作を見て「DoCoMo 2.0」のCMぐらいでしかしらなかったけど北川景子さんを好きになった人には、『美少女戦士セーラームーン』(ドラマ、2003〜04年)と『間宮兄弟』(映画、2005年)をぜひ見て欲しい! なにぶん私が、『美少女戦士セーラームーン』でおおっ、と思い、『間宮兄弟』を劇場で観てすっかり心酔してしまい帰りに友人宅へ寄り『SEVENTEEN』を大量に借りさせて貰った身ですから。それにしてもアレだよなあ、なんだか最近(去年か?)「女優ブーム」らしく、みなさんいろいろと主張していらっしゃるみたいですが、「劇場へ足を運べ!」と強く言いたい。そりゃ私も金銭的に危ういので、雑誌のインタビュー記事とかは図書館でコピーや数度の立ち読みで、出演作のDVDはレンタルして(中略)我慢していますが、劇場公開している作品は絶対見にいっていますよ。だいたい、映画なんてあのスクリーンで見てこそじゃないですか。もちろん、自宅にそれなりの設備が……とかなら大いに結構なのですが、そうでもないのに「あ、○○出てるんだ〜、でもいいや、DVDになったら借りよ」とか言っている人はファンじゃないですよ。ファンと名乗るのなら、これくらい知っているはずです、女優はスクリーンでこそ映えるし美しい、と。これは間違いなく。月に二、三回は必ず、朝から800円で映画館へ一人で乗り込み(中略)夜までずっと映画を見ている私が言うんだから間違いないです! これは女優好きでなくともですが、DVDやVHSで素晴らしい映画に出会い、劇場で観たかった、と嘆いた人は多いことでしょう。しかし、昨今の女優好きからは、まるっきりそんな感情や情熱が感じ取れません。これ以上進むとなると、ただの「ファンはこうあるべき」になり自己矛盾に陥りそうなのでやめます。とりあえず、ヌルオタはガチオタにランクアップせよ。さもなくば去れ。……とまではいかないけど、本当にあなたはその女優さんのファンなのか、よく考えて欲しいところです。
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 うー、もう本当に素晴らしくて、北川景子たん、と叫ぶしか表現方法がないんだけども。
 いや、やっぱり、ホント、さすがは北川景子たんですよ……!


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間宮兄弟
美少女戦士セーラームーン(1)
北川景子写真集Dear Friends


追記:「モップガール」でした。すみません!

ケータイ小説と文化系女子

 ケータイ小説に「リアルだ」と共感し、涙する女子中高生。そしてそれを貶すその他大衆。この様な構図は、ネットに耽溺している方(上記における後者)ならこれ以上語らなくとも瞬時に状況理解を示してくれるだろう。ケータイ小説は、拙文であり想像力も貧困で、内容はどれも大抵「援助交際」「ホスト」「死」などのキーワードが散りばめられていて、とても「リアル」だとは呼びがたい物である。そして、そんな作品で出版されベストセラーを記録する、これは確かに危惧するべき事であり、「馬鹿だ」と貶すことに繋がることかも知れない。しかし、私はこの様な構図、事態に幾つかの違和感を感じている。それは、ケータイ小説を愛読する層(主に女子中高生)が、本当に「共感」し、「涙」し、「リアル」だと感じているのか、ということだ。私の推論だと、読者である彼女達は全ての物事を「ネタ」として、「ケータイ」というフィルターを通して考え、感じているのだ。その「ケータイ」という「フィルター」は、全てをネタ化しうる物、意識的に自分の人物性すらをも変えているものである。つまり、そのフィルターを通すから「共感」「涙」「リアル」という事になっているのであって、実際にそうなっているわけではない。共感はケータイの向こう側にしか存在しないのである。流した涙はケータイの向こう側にしか存在しないのである。「リアル」はケータイの向こう側にしか存在しないのである。みな、「ネタ」として「リアル」と言っているに過ぎないのである。実際にそれらを体験しているのではなく、フィルターを通した意見を意図的、ネタ的にケータイでケータイ小説サイトに感想を込めているのだ。彼女らが一番「リアル」について自覚的であると私は考える。フィルターを通した自己はケータイ小説的な性格であり、みな、それをネタ的に楽しんでいるのだ。全て「ネタ」として昇華できる才を持ち合わせている彼女らに追い付くことが出来ずまともに批判(正確には罵倒)してしまうその他大衆のなんと無様なことであろうか。というネタをそろそろ友人に話してみたいが、ますます電波扱いされそうなのでやめておく。
 今日、図書館で友人らしき後姿を見かけたので脅かしてやろうと忍び寄り密接して歩いていたらそれ気づいたのかさっと振り返られ、「なんですか?」と、人違いだったらしく友人ではない見知らぬ高校生のお姉さんに問い掛けられた。身長154cm、体重40kgと推定。眼鏡は銀フレーム、髪型はボブ。なかなかのタイプであり、かなりの文化系女子であることは間違いないと思った。なので、手に抱えた本を指し、「それ、何かなあって思って」と質問をした。するとそのお姉さんは不思議そうな顔をし表紙を私が確認できるよう差し出してきた。タイトルを読む。『恋空』。上下。いろいろと、特に自分の審美眼に悲しくなりお礼をしそそくさと逃げるように私はその場を立ち去った。彼女に、そして彼女のような方々に私は一つ忠告したい。ケータイ小説を読む人はそのデメリットを考えて欲しい、と。例えば、「ライフ」あの人のような人ならば何の問題もなく、むしろ多大なメリットがあるだろう。デメリットなど、はっきり言って全く無い。しかし、彼女のようなルックスもアイテムも完璧に近い文化系女子type:B)がケータイ小説を読むということは、デメリットでしかない。はっきり言って、ケータイ小説の読者・執筆者の知性やルックスは大変おぞましい物だろう。セックスと恋愛が全ての人間だ、随分と可哀想な存在であることは間違いない。なので、知性の塊であるとも言える文化系女子が、そんなケータイ小説だなんてアイテムを読んではいけないのである。文化系女子は純粋で知性的で内気であるからこそ至高なのである。そんな毒薬を飲むような真似はやめて頂きたい。そのアイテムは貴方のイメージを低下させる物でしかないのだから。

アニメ「らき☆すた」完結。驚愕の最終話について迫る。

 つい先ほど最終回を迎えたアニメ「らき☆すた」。まだ放送終了から数時間しか経っていないというのに、様々な場所で論争が起きている。最終話である第24話は、それぐらいとてつもなく衝撃的な物であった。
 皆さんご存知だと思うが、簡単に「らき☆すた」の説明すると、「ぬる〜くゆる〜くあるあるネタをメインに女子高生の日常を描いた」原作に、自社パロディを付け加えて話題だけはあったよくあるキャラ萌えアニメである。何故あそこまで流行ったのか、は本件とはさほど関係ないので割愛させてもらう。仲良し4人組の高校3年、そしてそれと取り巻く高1のかわいい女の子がそんなあるあるネタや萌えネタや日常話を繰り広げていたのが第23話までの話だった。これは、原作の1〜4巻(+少し)までを忠実に描いた話であった。最終話は「あずまんが大王」のように卒業して終わり、という訳でもなく日常的なまま終わらせるのだろう、というのが大方の予想だったと思う。しかし、そんな予想を最終話は開始数秒でぶち破ってくれた。
 まず、オープニングから破壊的だった。それまではノリの良い電波ラップソングを乗せた極めてポップでかわいいダンスアニメだった。だが、最終話はまったく違った。いや、正確に言うと素材は同じなのだが、まったく別物になっていた。無音。掛け声が起こるはずの冒頭、まったくの無音から始まった。そして次に起こったのはただの無機質な背景。ダンスを踊っているはずの4人組は居らず、ただ背景が映っているだけだった。そしてあのポップな曲も流れることはなかった。曲は消えただただノイズが流れ、人物は一切消え背景が映っているだけ。視聴者全員が口が大きく開けたまま、閉じられなかったと思う。しかし、そこからの本編が本当の凄さだった。
 画面に映し出されたのは、病院のベッドに横たわり点滴を打ったまま眠っている柊つかさ。そしてそれを取り巻く姉の柊かがみを含む柊家と、高良みゆき。カメラは病室の天井端。姉のかがみが泣いていると見られるがまたしても無音。そのシーンが5分にも及ぶ長まわしで続いた。そして次に映し出されたのは黒背景に白字で「1年前」の文字。それからは卒業式からあの4人組を進路先を説明したシーン。あの4人は無事卒業した後、泉こなたは都内の私立大学、柊かがみは都内の私立大学(こなたとは別)、柊つかさは地元の福祉専門学校、高良みゆきは都内の女子大学へとそれぞれ進学。ここまでがAパートである。
 どうすれば良いか分からない心情のままいつもと変わらないCMは明け、Bパートに突入。ここからが本当の衝撃だった。いきなり泉こなたリストカットシーンが目を覆いたくなるほどリアルに映し出され、目を覆っていると2分後、父親泉そうじろうとのセックスが映し出された。そして、こなたの母でありそうじろうの妻(亡くなっている)であった泉かなたとの思い出を回想するそうじろう。これが数分続き、そうじろうの射精を以って回想から戻りシーンは終了。そして次に映ったのはバスルームで腕から血を流し倒れているこなた。それが走馬灯と共に映し出され、Bパートも終了。
 エンディングはある意味一番奇妙だったのかもしれない。エンディングとしてもってきたのは、従来のオープニングだった。しかし、少し、いや大きく違ったところがあった。泉こなた柊つかさの体が半分透けていたのだ。そしてそれから何のテロップが出ることなく終了。
 長くなったが、これが最終話の内容だ。製作会社である京都アニメーションが何を考えてこれを作ったのかは私は分からない。この最終話について、ネット上では非難の意見が大多数だ。しかし、私はこの革新的最終回を大きく評価したい。何の面白みもなくだらだらとテンプレートをオタクに売り続けまただらだらと同じような作品が生産されているこの現状に、「らき☆すた」は立派に立ち向かったと思う。他のクズ作品と違って、間違いなく後世に語り告がれる作品になるだろう。この「萌え」第一主義の時代に、これだけの物を作った京都アニメーションは、伝説としてこれからも君臨するだろう。私はこの時代にこの作品に立ち会えて良かった、そう強く思う。




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エロ同人誌vs処女喪失考察――「らき☆すた」をめぐるおはなし

 前回のエントリーでは、「エロ同人誌」も、私の考えた「らき☆すたキャラ処女喪失考察」も同様に愛がある、と書いたが今熟考してみるとそれは間違いであったと気づいた。
 エロ同人誌に比べ、私の「らき☆すたキャラ処女喪失考察」の方が愛が溢れている。強く言うと、エロ同人誌になんてたいして「愛」はない。そう強く思ったのだ。「エロ同人誌」と「処女喪失考察」の「消費」の差異についての説明を挟みながら、そう思う所以を以下に記す。
 エロ同人誌は流行の消費だと私は以前に書いた。するとそれに対しid:kyoumoeさんは「これ大丈夫かな? いろんな人に反感買わないかな?」と反応した。この反応を見た当初、私は深く考えもせず「こんなものだよなぁ〜」と思ったのだが、よく考えるとそのid:kyoumoeさんの意見は少数派だと感じる。
 エロ同人誌での「萌え」消費はそのときの流行りのネタで溢れている。しかも、全て画一的だ。もちろん、その短い流行が去れば割合は大幅に落ちる。市場を占める作品を見ればこのことは明らかだ。流行が流行でなくなったとき、作品は忘れ去られる。これを「消費」と呼ばずに、何と呼ぶのであろうか。
 私は、私の書いた「処女喪失考察」も消費だと述べた。しかし、同じ消費だとは言え、上に記したような「エロ同人誌」と比べると明らかに差異的な部分が見られ、そしてもっと見ると「愛」すらをも格段に差があるように思える。「処女喪失考察」は、有り触れたキャラクターの「萌え」を消費したものではない。想像を巡らせ、キャラクターの見えない部分を世界観から読み取り考えている。この行為は、見えない部分を書くために、世界観を崩しているとたびたび非難される。しかし、エロ同人誌と違い上辺の「萌え」だけを消費しているのではなく、その萌え要素の集合体であるキャラクターを作品の世界観から「萌え要素」以外の部分を読み取り想像している。これは、より深く「キャラクター」と「世界観」を感じとる行為であり、そして何より「理解」を要する行為だ。
 したがって、ただ流行りで「萌え」を消費しているエロ同人誌と比べ、「処女喪失考察」は極めて「愛」に溢れた物だと私は確信している。そして、これを機会に、もちろん私自身も含め、「世界観」ということについてもっと深く考えるべきだと思う。「らき☆すた」のキャラは性欲のない「世界」の住人なのか? それが「らき☆すた」の「世界観」なのか? 一概に「作品の世界観が」と糾弾している人たちに、それを問う覚悟を持つべきだろう。
 最後に、私は幾つかの説明と注意をしなければならない。このエントリーでは「エロ同人誌」に限って話をしているが、これはエロに限らず「同人誌」でも当てはまりうることだ。そして、エロの場合でも全てが「愛のない消費」ではない。くだらなく、絵でしか差がつけられない物が大半のなか、頭一つ抜け出している物も中にはあるだろう。また、この記事ではやたらと「愛」だとか言っているが、そんなの「二次創作」でしかないという前提がある事を汲み取って欲しい。ここで「私の方が愛がある!」と主張したところで、かなり低レベルな話なのだ。これらは、言うまでも無くただの「消費」でしかない。消費が悪いとは思わないが、所詮「消費」である。あくまで低いレベルでのおはなしだと言うことを理解して頂きたい。